ONO FOR ALL, ALL FOR ONO

ぼくの親父

今年もです

今年もです。
今年も引越しが決まりました。

これが18歳から数えて4回目の引越しになります。いま、僕は26歳なので単純計算で2年に一度ですね。

これは、僕の一人暮らしの話ではありません。オノ家、家族での話です。

まるで、やどかりが貝殻を変えるように僕たち家族は引越しをしています。

では、なぜそんなに引っ越しをしているのか。

「やどかり家族」になった、その理由について今回は書いていきたいと思います。

単刀直入に言うと、引越しの理由はお金がないからです。

恥ずかしい話ですが理由は至ってシンプルなんです。
しかし、恐ろしいほどの貧乏ってわけでもないと思います。

母親は保育士をしていますし、僕も決して多くはありませんが収入はあります。
残る親父も仕事はしているのですが、

破天荒な性格なんです。

息子の僕が言うのもおかしいですが、彼の波乱万丈っぷりは中々のクラスなんです。

そこで親父の山あり谷ありの人生について、僕が知っている限りのことを書かせてください。

そして、最後までお付き合いください。

親父の紹介

▲3年前ほど前、僕のいとこの結婚式で撮った一枚

まずは、簡単に親父を紹介します。名前はオノタカヒロ、今年で57歳になります。

性格は昭和のオヤジといった感じで頑固でお酒好きです。両津勘吉や車寅次郎といった江戸っ子をリスペクトしているため義理人情は堅く、横のつながりはものすごく広いです。

また声も大きく、いびきや寝言に関しては101号室に寝ていたら203号室までは聞こえるんじゃないかと思わせるほどの騒音です。今年になってからは「今のままじゃ残り10年しか生きられないよ」と医者に尻を叩かれ、臆病の親父は医療用マスクを着用して寝ています。

親父は基本、どこでも寝れるタイプで寝つきも驚くほど早いので同じ部屋は拷問だと思ってください。

やどかり家族になった発端

最初に自慢をさせてください。
僕が18歳まで生まれ育った最初の家は少しだけ裕福な家庭だったと思います。

敷地面積80坪の庭には池や柿の木、みかんの木が植えられていました。家も一般的な一軒家と比べると1.5倍ほどの大きさはあり、間取りは10LDK。お風呂はミストやジャグジーを完備していましたし、トイレも壁にウォシュレット機能のリモコンが備え付けられていました。

なによりの自慢は娯楽室です。そこには僕の青春である麻雀をやるために全自動雀卓機が置かれていました。

人生、順風満帆でしたね。ここまでは……。

お待たせしました。ここからジェットコースターのように下降していきます。

▲結婚するまで乗っていた愛車、赤の86(ハチロク)

遡ること8年前。僕、18歳、親父49歳。
僕たち家族は埼玉県桶川市という場所に住んでいました。ここは僕が生まれ育ち、親父も生まれ育った場所です。

親父はその頃、土木業を営む会社の社長。
僕が幼い頃にサラリーマンを辞め、未経験で始めた職種です。それにも関わらず、何不自由ない暮らしをさせてくれた親父には感謝とともに尊敬します。

そこに突然、悲劇は訪れました。

ハワイ旅行から帰ってきた親父が目の色を変えて銀行に向かったことを覚えています。

旅行中に銀行の支店長から電話で呼び出され、珍しく焦っていましたから。

結論から言うと親父はこの時、取引先から不渡りを出されました。

金額にすると、2億8千万円ほどの負債を抱えてしまったのです。

後日、聞いてみると不渡りを出した業者は最初から払えないことがわかっており、いわゆる計画倒産だったとか。

急に莫大な借金を背負った親父。

裁判も起こしましたが訴えは認められず、残った選択肢は自己破産しかありませんでした。

自己破産ですから財産となる家、土地、車など、全てを失いました。

ここで冒頭の自慢は帳消しにしてくださいね。

そして、ここからオノ家は引っ越しが癖になっていきます。

破産までの親父のビジネス

今、考えると親父は様々なビジネスをやっていました。

僕が一番、印象的だったのは駅前で経営していた多国籍クラブ「ビリオン」。東南アジアの女性やニューハーフのお店です。ここでは毎晩、ショーが行われ、地元の男たちを盛り上げていました。

他に競合店もなかったため、ビリオンは大盛況。その後、赤坂でも同じ系列の多国籍クラブを経営進出していました。ちなみに、こちらは女性オンリーだったそうです。

この頃の親父は絶好調でしたね。

月に一度は大好きな台湾旅行に行っていましたし、僕に買い出しを頼む際は必ず1万円、渡して「釣りはいらない」なんて成金セリフを吐いてましたから。

そこにまたしても悲劇が訪れました。

ビリオンのオーナーだった親父は、お店にはあまり顔は出していませんでした。代わりに店長は親父の幼稚園からの友達の飛田さん(仮名)に任せていました。

昔からの友人です。何の疑いもなく、頼りにしますよね?

しかし、飛田さん。
キャストの女性に惚れてしまい、お店のお金を持ってどこかに遠くに逃げてしまったんです。

ナニワ金融道かと思いますよ。

そこで、ビリオンは閉店。

信用していた友達に裏切られる。こんな悲しいことありますか?

それでも、親父は「仕方ないか」の一言でした。

これは友達だったからでしょうか?

深く考えない主義なんでしょうか?

僕にはわかりません。

▲ビリオンで働いてくれていたキャストさんが今、働いているお店にもよく親父と行きます。ちなみに全員、男です

ビックビジネスだけではありません。

サラリーマンを辞め、成り上がるまで収入源はアルバイト。そのため、昼も夜と掛け持ちで働いてくれていました。

何が苦痛って、ラブホテルの清掃バイトが特に辛かったそうです。

友達に裏切られたエピソードよりも苦い顔をしていました。

破産後の親父のドリーム1

▲僕が生まれるまで所有していたキャンピングカー

これは一昨年、親父とお酒を飲んでいた時の話です。

いつまでも夢を持ち続ける親父が嬉しそうに喋り出しました。

「俺、DASH村をやるわ!」

彼はいつも唐突です。
TOKIOに憧れ、影響されたんでしょうね。

「青梅に山を買ったから、烏骨鶏と椎茸を育てるんだ!」

「それを道の駅で売って収入にするんだ!」

そう、居酒屋で騒いでました。

当時、オノタカヒロ55歳。
そこまでの発想力、実行力、感服ですよ。

数日後。

満を持して山に向かう日です。

意気揚々と家を出て行きましたが、帰ってきた時は落胆していました。

というのも、自分で買った山が大きすぎて入り口がわからなかったそうです。粘りをみせて2時間ほどは彷徨ったらしいのですが、辿り着くことはありませんでした。

そして、二度と親父がその山に行く事はありませんでした。

僕の感服を返して欲しい。

破産後の親父のドリーム2

DASH村を断念した親父。

ある日、知り合いの不動産屋の社長から連絡をもらいました。

「手頃な島が見つかった。」

そして、懲りない親父はこう宣言するのです。

「村は無理だったから、今度はDASH島をやるわ!」

どう思います?

数年前に2億8千万円の借金を抱え、自己破産した人のセリフとは思えないですよね?

そう言い放った親父は現に長崎県にある無人島を買いました。

いったいどうやってカネを工面しているんでしょうか? 母によれば、息子、つまり僕の名義を色々と駆使しているようですが、あまり深く考えないようにしています。

なお、その無人島は今でも所有しています。

ここでは、島の山を崩して石を売る予定だそうです。

案山岩という性質の石で、親父の見積もりでは12億は稼げるそうです。

しかし、どんな理由かわかりませんが近いうちに手放すそうです。

一度も行かずに。

▲噂の無人島

そして現状

夢ばかり追う親父ですが、昨年末に本業の土木絡みで大きな仕事を2件したそうです。それにも関わらず、経済状況は厳しいままです。

その理由は、自己破産の時と同様にお金が支払われなかったそうです。親父から聞いた話では、1つの会社は社長が逃げてしまったようで、もう1つの会社の社長はお亡くなりになってしまったとか、どうとか。

ヘビーな内容で申し訳ありません。

どちらにせよ、親父の仕事は収入が入る時は大きいです。しかし、いかんせん不安定な収入なんです。

広い人脈、遊びに貪欲、その日暮らしでも構わない、その精神だけは親父が愛してやまない寅さんのようです。

▲大好きな「くるまやラーメン」

早い話、僕がもっと立派に稼げるようになれば良い話なんですけどね。

ここからが勝負です

今年も

引っ越しの時期に

なりました。

2017年

相変わらず

オノ家の

家計は

火の車です。

そう。

火の車なんです。

編集後記

急にバイオレンスなGIFを挟んですみません。…説明します。

この記事を書くにあたって、どうしても僕は「火の車ギャグ」をやりたかったんです。

ただオチを思いついた時、さすがに親父でも「髪の毛を燃やさせて」は怒られるんじゃないかと懸念しました。

でも、やりたい。

そこで僕は、こう考えました。

これまで散々迷惑をかけてきたのだから、息子渾身のギャグに付き合ってくれたっていいだろう。そう、自分を肯定したんです。

そして意を決し、親父に話を持ち掛けました。

すると、意外にも親父は「いいよ」とあっさり快諾。

ちゃんと理解してるのか、わからないほどの快諾っぷりでした。

これが僕の親父なんです。

もちろん、撮影は安全第一。

自分や友達の髪の毛で何度も実験を繰り返し、頭皮は火傷しないことや意外に髪の毛は燃えないことを勉強しました。

濡れタオルも準備しましたし、撮り直しのないようにカメラマンは3人も雇いました。

一つ、誤算があるとすれば親父の髪が思ったよりも薄かったことです。

若い僕に比べて、髪の毛のハリはなく、毛の量が少なかったんです。

そのため途中で「あちっ」と声を出す瞬間がありました。

その時に初めて僕は申し訳なさを感じ、

「俺の髪の毛を切っていいから、かつらみたく頭の上に乗っけなよ。」
と譲歩しました。

しかし、

「自分の髪の毛じゃないと、つまらないだろ。」

親父は、まさかのモチベーションを保っていたのです。

そうして、無事に撮影を行うことができました。

撮れた写真は親父も気にいってくれて、今ではLINEやFacebookのアイコンにしています。

きっと、ニューハーフクラブで自慢してくれるのでしょう。
なので、決して心配はしないでください。

大丈夫です、僕たちは、けがありません。

※良い子は真似しないでくださいね。

by
こう見えて日本生まれ日本育ち。